2015.03.20

小さな宇宙を内包するものとしての手帳

手帳[第3回]

 

スマートフォンのスケジュール帳がいっぱいになっていても、なんとなくリアルではない感じがする。でもそれが手帳に書き込まれていると、なんだか自分がとっても忙しいというか、充実していると思う。どうしてなのかは、よくわからない。先日、広尾の中央図書館で調べものをしていたら、隣の席の大学生とおぼしき男子が、眉間に皺をよせながら何かを手帳に書き込んでいた。なんだかとってもリアルだった。

 

僕の調べものは、最近、行政が主導する街おこしの一環としてアート(やアーティスト)を活用する例があるけれど、それが最終的に街に根付くか否かというテーマだった。特に心躍るものではないけれど、かといって眉間に皺を寄せるようなものではない。

 

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そういえば、知り合いに未だにファイロファックスを使い続けている男がいる。やたら分厚くて、いろんな折り込みがしてある。なんだかそういう手帳って精力的に活動しているビジネスマンってイメージを受ける。これもやはり手帳ならではだろう。スマートフォンではそうはいかない。いやスマートフォンに限りはしない。デジタル・デヴァイス全般に言えることだ。

 

デジタルとアナログではないが、クルマのオートマチックとマニュアルにも似たようなことがいえるだろう。一時期、マニュアル・ミッションは消滅するかと思ったものだが、ある種のステータスとして復活した。より五感に訴えてくるのは間違いなくマニュアルだろう。

 

私たちはかつて未来を想像した。「未来」という言葉の中には「より便利な生活」も含まれていた。しかし実際に「未来」が訪れてみると「利便性という名のもとにいろいろなエモーションが失われてしまった」と「今日」の私たちは無意識に感じているのかもしれない。

 

ともあれ、手帳というものは、人々の持つ小さな宇宙を内包しているように思える。

 

(文・久保田雄城/写真・塩見徹)
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