- 2014.12.05
ニューヨークのためのセレナーデ あるいは ラプソディ・イン・ブルーの後日談
ステープラー[第1回]
彼女と知り合ったのは音楽家の葉山の別荘で開かれた夏の始まりの宵にスタートしたホームパーティだった。もっともホームパーティとはいえ、ゲストのほとんどは、その音楽家の半分パトロンの様な熱狂的なファンだったのだけれど。僕はその音楽家の北米と中国のマネージメントを担当していた。
宏子は、僕よりふた周りも若かったけれど、どうした事か70年代のロックミュージックにやたらと詳しくて(会場では、ずっとフリートウッドマックの「噂」やら、ロキシーミュージックの「サイレン」やらがかかっていた)、すぐに意気投合した。ただ気になったのは、パタゴニアのトートバッグの中にステンレスのワインオープナーのようなものを忍ばせていた。パーティのキッチンからくすねてきたのだろう。
音楽家は台湾生まれのチェリストで、ファッションモデルもやるような美人だったので、パトロンの大半は60代以上の名の知れた企業の役員やら、開業医やら、テレビでよく見かける弁護士やらといった連中だった。だからディーゼルのデニムとクリーニングをかけていないトムブラウンの白いシャツの44歳の僕とデニムのホットパンツに白いタンクトップ、茶色のレザーのフリンジベストの彼女は完全に場違いだった。でも彼女が着ていたものは、すべてディーゼルで、それも僕らが、すぐに仲良くなった理由のひとつだ。もっともパトロン達には、クルマしか連想できない名前だろう。
僕らは海を見渡せる庭にフランス窓から出て、二人で話をした。水平線に間もなく日が沈もうとしているのに、彼女は目を細めてウェイファーラーをかけた。彼女は言い訳するみたいに、「私の目、本当に紫外線に敏感で、すぐ目がしょぼしょぼしちゃうの」と言った。
僕としては、彼女の強い目力が隠れてしまうのが嫌だったけれど、サングラスもまた彼女に似合うことに気づいた。5月の潮風は、彼女の綺麗な長い黒髪をなびかせた。
(文・久保田雄城/写真・塩見徹)
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