2014.08.29

1970年代のフォークロア、シルヴァーの手入れの行き届いたポルシェ911、青い三角定規の哀しい結末、濁った虚ろな瞳の一番奥の最後の美

定規[第3回]

 

「青い三角定規」がデビューしたのは、1971年のことだ。彼らは男二人に女一人という、まあよくある編成のフォークグループだった。翌年、テレビドラマの主題歌となった「太陽がくれた季節」がミリオンセラーとなり、彼らを知らない人はいないほどメジャーになった。「レコード大賞・新人賞」を獲ったし、「紅白歌合戦」にも出演した。今の時代からは信じられないが、このふたつのTV番組を制覇するということは、ものすごいステータスだったのだ。つまり「青い三角定規」は一世を風靡したのだ。しかしその翌年、彼らはいともあっさりと解散してしまう。この引き際が良さはなかなかクールだ。

 

今から、もう二十年くらい前に、ある建築事務所の社長で自身も建築家の人間と十日ほど仕事をする機会があった。特に名の知れた男ではなかったけれど、洗練された服装で物腰も柔らかく、仕事のレベルも高かった。南青山のその会社の地下駐車場には、いつも彼のシルヴァーの手入れの行き届いたポルシェ911があった。スラリとした体型の彼にそのスポーツカーはとてもよく似合っていた。そして彼は涼しげな美しい目を持っていた。

 

05_scale_03

 

話を「青い三角定規」に戻そう。時はすべての人を老いさせるだけでなく、ある種の人々の判断力をも失わせさせる。「引き際」がよかったバンドは、それから33年後の8月に突如、再結成し、秋からのツアーがアナウンスされた。そのわずか1カ月、メンバーの一人が飲酒運転で人身事故を起こす。そしてそれから2週間後、そのメンバーは飛び降り自殺をしてしまう。

 

僕はこのことから、人は等身大の人生を生きるべきだという教訓を学んだ。死んだメンバーは、バンド解散後、ソロ活動を行ったものの、うまくいかずそのまま音楽業界を離れる。そしてその後、居酒屋を経営していたりしたようだが、再結成の頃には無職だったという。メンバーにすれば「夢をもう一度」とい思いがあったのだろう。でも、その夢は彼には抱えきれないものであり、結果的に夢が彼を殺したのだ。

 

先日、友人に連れられて新宿三丁目で、朝まで飲んだ。籠ったような不快な湿気に溢れる夏のどんよりとして夜明けの通りを歩いている時、僕はゴミ箱を漁るボロボロのうす汚い服をまとい醜く太った男を見た。夏なのに彼は熱を感じてはいないようだ。背中を丸めて何か食べ物を探し、選別しているようだ。見るともなく男を見ていると、視線を感じたのだろう、僕の方に男は振り返って、僕と目が合った。

 

どんな事情があったのか、僕には知る術もない。その男は彼だった。濁った虚ろな瞳の一番奥に最後の美を宿していたから。時はすべての人を老いさせるだけでなく、ある種の人々の判断力をも失わせさせるのだ。

 

シリーズ「定規」了
(文・久保田雄城/写真・塩見徹)
──────────────────────────
[ 第1回 第2回 第3回 ]