2014.07.04

私たちは常に不在だから何も気にすることはないのよ、Spero che ti mancherei、 仕事ばかりで遊ばないジャックは今に気が変になる(前編)

 

ペンシル[第1回]

 

「こちらパレルモは柔らかい陽射しに包まれた穏やかな朝だよ。
庭中に広がる娘の声。美しい子。
あなたはあなたの人生を生きて。
そこにどんな登場人物が出てくるのかは、
もちろんあなたが選ぶべきだし、あなたにしか選べない。
そして私も私の物語を生き続けているわ。
私たちは常に不在だから、何も気にすることはないのよ。」

 

 21世紀も10年以上過ぎたというのに、その朝僕のアパートの郵便受けに入っていたのは分厚い封書のエアメール。けれど書いてあったのはたったこれだけ。 それに白紙のレターペーパーが10枚ほど。娘の写真も彼女のスナップ・ショットもなし。そんな手紙をソファーに寝転がって読んだ。

 

 手紙の送り主は、画家だ。彼女は新進気鋭の作家として、日本ではなくイタリアで名を上げた。そして同時に彼女は僕の妻でもある。同居していた頃には、彼女はよくe+mのアルミニウムの削り出しのクラッチペンでスケッチを描いていた。彼女のその左手と銀色のアルミニウムの取り合わせがとてもエロティックだったことを今も鮮明に憶えている。

 
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 僕らの結婚生活は随分前に破綻した。でも、どういった理由なのかはわからないが、彼女は未だに離婚に応じてくれない。

 

 一体全体、どうして彼女は一年ぶりにこんな手紙をよこしたのだろうか。そもそも僕らに子どもはいない。その美しい子とは誰なのだろう。僕は想像の翼を可能な限り拡げてみる。そして何度も読み返している内に、そこには彼女の想いが込められていることに気づいた。

 

 僕が破綻したと考えている関係は、彼女にとってはそうではないのだ。破綻している関係の相手にこんな手紙を書きはしないだろう。かといって、「今すぐに会いたい」とか「そばにいて欲しい」という性急なことでもなさそうなのだが。

 

 白紙のたくさんのレターペーパーの中には、「Spero che ti mancherei」*1という見えない言葉がたくさん綴られているのだろう。スタンリーキューブリックの「シャイニング」の主人公のジャックが、冬の閉鎖されたホテルのラウンジで、タイプライターで打った「All work and no play makes Jack a dull boy」*2という一文の無数の繰り返しのように。そう、だからもちろん僕はこの手紙を決して好意的にとらえていたわけではない。

 

* 1 「私を恋しく思ってね」
* 2「仕事ばかりで遊ばないジャックは今に気が変になる」

 

(文・久保田雄城/写真・塩見徹)

 

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