2014.06.20

台北の夏、 It’s yours、スマイソンのペンケースに人生を変えられた男とチェリストの女

 
ペンケース[第3回]

 

 男が再婚したのは、むせるような濃厚な緑の匂いがする台北の六月だった。相手は男よりちょうどふた回り若い。彼女は台湾人だった。

 

 前の年の夏、初めて男が彼女に会った日。そう、台北だ。
「多くの日本人は私を中国人と呼ぶけれど、あなたは台湾人と呼んでくれるのね、とても嬉しい」と、ちょっと英語がミックスされた日本語で言った。彼女は日本とオーストラリアを中心に活動するチェリストであると同時に大学院でチェロの勉強をしていたのだが、夏休みで帰省中だった。

 

 彼女の十八番はラベルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」だと言った。男にとっては、この曲はピアノ曲だったので、チェロとの組み合わせは新鮮だった。

 
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 男には妻と中学生の一人娘がいた。でも、あまりそういった事を気にしないタイプの男だ。すぐに彼女と打ち解けた。不思議だった。50 代直前の男は、自分がまだ一目惚れなんてする気持ちを持っていたことが。

 

 仕事柄、男は絵コンテをよく書くから、万年筆を入れておくペンケースは必需品だ。スマイソンのペンケースを長年、彼は使っている。イギリスでのロケの移動の時、どこかでペンケースを無くしてヒースロー空港の店で見つけたものだ。高価だが、それに見合う価値はあると男は思っている。

 

 台北のカフェのカウンターで、バッグからスマイソンが落ちたことに男は気づかなかった。隣にいた彼女が、拾ったペンケースを差し出し「It’s yours」と教えてくれた。特に目を惹く美人という訳ではなかったが、エル・ファニングにちょっと似ていた。

 

 男は撮影に向かわなくてはいけなかったので彼女に名刺を渡して「今度は東京でお会いしましょう」と言って、カフェを出た。

 

 帰国後、男は、あの時きどって彼女の連絡先を聞かなかったのは失敗だったなと思った。もう一度会いたいと男は強く祈った。2 週間後、東京に秋の気配が忍びよる頃、男は彼女から連絡をもらった。天にも昇るような気分だった。

 

 秋の終わり、男は慰謝料を小切手で全額支払い離婚を成立させた。
ペンケースを落としただけで人生が変わることもあるのだと、男は仕事場でスマイソン
を眺めながら、ふと考えた。

 

(文・久保田雄城/写真・塩見徹)

 

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