- 2016.12.02
安曇野×ちひろ① いわさきちひろが愛した北アルプスの麓の村
今年1月、「ぶらりアート」の取材で東京都練馬区にある、ちひろ美術館にお邪魔した。絵本画家である、いわさきちひろの自宅があった下石神井に建てられた美術館には、数々の作品や絵本が展示されており、大人も子どもも一緒に楽しめる美術館、というよりは“おうち”のような温かい場所だった。
長野県にもまたちひろ美術館が存在することを知ったのはこの時のことだ。雄大な北アルプスの麓に位置する美術館。パンフレットの美しい写真を一目見て、ぜひ行かなくては!と心に決めていた。12月には冬期休館に入ってしまうということからも想像できるように、深く雪が積もる場所なのだろう。
そんな休館を間近に控えた11月15日、新宿発の特急あずさに乗り長野県の松川村へと向かった。
安曇野ちひろ美術館は、1997年、東京のちひろ美術館の開館20周年を記念して建てられた。信州・安曇野は、いわさきちひろの両親の出身地であり、ちひろが幼い頃から慣れ親しんだ思い出の土地である。美術館のバックグラウンドには雄大な北アルプスの山々がそびえ、11月は広葉樹が赤や黄色に染まり、訪れた人に秋の風情を楽しませてくれる。東京の紅葉よりもはるかに色濃く染まった木々は、まるで厳しい冬を迎える前に力強く命を燃やしているようだ。
訪れた日は11月半ばにしては暖かく、念を入れて着込んできたコートを脱いでも寒くはなかった。地元の人々も「小春日和ね」と口にするような気持ちのよい気候だった。
美術館の近くに流れる乳川の清流に沿うようにして、建物の周囲には安曇野ちひろ公園(松川村営)が広がっている。今年の7月にはトットちゃん広場が新たに誕生し、「食」「農」「いのち」を学ぶことができる公園として地元の人々や観光客に親しまれているようだ。これは、館長である黒柳徹子さんの著書である『窓ぎわのトットちゃん』の世界をモチーフに作られた広場だ。敷地内には昭和時代に信州を走っていた長野電鉄「モハ」と「デハニ」の車両が置かれ、トモエ学園の“電車の教室”が再現されている。
「モハ」の車内は小さな図書館になっており、まるで絵本に出てくるような場所だ。いわさきちひろの著書や『窓ぎわのトットちゃん』をはじめとする約500冊の絵本を、車内のシートに腰掛けてゆっくりと閲覧することができる。
もう一つの「デハニ」では、トモエ学園の教室の中が再現されている。理科、国語、美術……この学校では、子どもたちが好きな科目を選び、自由に学ぶことができる。『窓ぎわのトットちゃん』にも綴られているように、幼い頃の黒柳さんは、授業を受けることが苦手で、小学校を退学させられてしまう。その後の転校先が、自由な校風のトモエ学園だった。
東京都目黒区にあった学園の校舎は空襲により焼けてしまったが、黒柳さんを筆頭とする卒業生たちから、今でも愛され語り継がれているようだ。
広場には電車の教室だけでなく、トットちゃんが大好きだったお相撲の土俵や、星が見える井戸、落とした財布を探した便所の汲み取り口も再現されており、散策しているとタイムスリップをしてトモエ学園に迷い込んだような気分になる。
公園内には体験農園や体験交流館があり、地元農家の方と一緒に収穫や郷土食づくりを行うことができる。トモエ学園のスタイルを参考にした運動会や地元の野菜や果物を扱う収穫祭、子どもが気軽に参加できるワークショップ等のイベントも定期的に開催され、観光客と地元の人々、子どもと大人、地域の人同士、様々な繋がりが生まれる場所となっているようだ。交流館の入り口には作っている途中の干し柿が吊るされていたり、ボランティアの方たちが花壇の手入れをしていたり。美術館の庭というと少々かしこまった印象があるが、ここは村の憩いの場のように感じた。
美術館は「ちひろ館」と「世界の絵本館」の2つの建物に分かれ、いわさきちひろの絵や作家ゆかりの品々を鑑賞できると同時に、世界中の絵本画家の作品を楽しむことができる。
ちひろの作品は東京の美術館でも十分に堪能したが、安曇野では黒柳さんによるちひろへの思い入れをより深く感じ、前とは違った目線で展示を見てまわることができた。
美術館を建てるほどだから、黒柳さんといわさきちひろは、さぞ親しい仲だったに違いないと思い込んでいたが、実は二人は一度も会ったことがなかったと知り驚いた。以前よりちひろの絵のファンだった黒柳さんは「本を書いたら挿絵や表紙はぜひ彼女に」と決めていたそうだが、『窓ぎわのトットちゃん』が出版される前に、惜しくもちひろが亡くなってしまったのだ。
ちひろの死後、黒柳さんは彼女のご家族の元を訪れ、ちひろが描き残した子どもたちの絵を一緒に一枚ずつ見て選んだという。そして、トットちゃんにぴったりだと選ばれたのが、帽子を被って座っている少女の絵だった。緊張の面持ちでトモエ学園に向かう、少女時代の黒柳さんにそっくりだと思ったらしい。
実に可愛らしく、魅力的な子どもたちを描いてきた、いわさきちひろ。
黒柳さんがそうであったように、私たちは彼女の描く子どもに自分の少女時代・少年時代を重ねて懐かしく感じるのかもしれない。そして母親たちは「ああ、うちの子みたい!」と我が子の姿に重ねるのだろう。ちひろの手が生んだ子どもたちは、誰もが親しみを感じる存在なのだ。
アンデルセン童話の挿絵として描かれた少女たちも、特別に美しいお姫様というよりは、身近にいる親しみやすい少女として描かれているように感じた。
安曇野ちひろ美術館には作品鑑賞以外の時間を楽しませてくれる魅力もある。
例えば、無垢材で作られた椅子に腰掛け、中庭の木を眺めながらボーっと過ごしたくなるような場所なのだ。また、展示室の他にも「トットちゃんの部屋」があり、トモエ学園と同時代に使われていた古い机や椅子が並べられ、ここでもトモエ学園の教室が再現されている。美術館を訪れたシニアのグループの方たちが、みんなで座って学生時代を懐かしむこともあるのだそうだ。
そして、ここでは「食べること」も楽しみのひとつ。
絵本カフェでは、地元で採れた旬の果物や野菜を使ったメニューを提供している。
紅玉丸ごと焼きりんご、信州産きのこピザ、松川村農家の手作り山菜おこわ。そして、信州産のりんごジュースとぶどうジュース。
ここに来るだけで、たくさんの信州の味を楽しめるのは嬉しい。新鮮な食材を使用した料理はどれも美味しく、季節ごとにメニューが変わるのもカフェの魅力だ。
「ちひろが愛したいちごのババロア」は、新宿すずやのババロアを当時のレシピのまま再現したものだそうだ。ちひろの好物だったと知り、一口ずつ大切に味わった。
生涯、世界中の子どもたちの幸せを願い続けた、いわさきちひろ。
安曇野の美術館、そして地域の人々の拠点となる自然豊かな公園は、「すべての子どもの居場所となること」を願い、作られたそうだ。
なぜ、ちひろは安曇野が好きだったのか。
なぜ東京だけでなく、この場所にも美術館が作られたのか。
乳川の流れる優しい音と、真っ赤に熟れたりんご、そして松川村を包むように見下ろす山々を感じれば、その答えが自然と分かるような気がした。
今回、心のこもった解説とご案内、収穫祭など開催時の写真をお貸しくださった安曇野ちひろ美術館の田邊さんと宮木さんに、御礼申し上げます。
<安曇野ちひろ美術館>
長野県北安曇郡松川村西原3358-24
TEL:0261-62-0772
テレフォンガイド:0261-62-0777
開館期間:3/1~11/30 冬期休館:12/1~2月末日
開館時間:9:00~17:00 お盆・GWは18:00まで
入館料:大人800円/高校生以下無料
交通:JR大糸線「信濃松川」駅より約2.5km(タクシー5分、レンタサイクル15分、徒歩30分)
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