2016.10.01

君の膵臓をたべたい

やすこな本棚 第八回

 
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「目に入れても痛くない」という言葉がある。対象を目に入れたとしても痛みを感じないほど、愛しく思っていることを意味するこの言葉は、限りなく深い愛情表現の一つとして、言われてうれしい思いをする人も多いだろう。

 

 しかし一方で、「食べちゃいたいほどかわいい」「食べちゃいたいほど好きだ」と言われればどうだろうか。「ありがとう」と、はにかんだ笑顔で返答できるだろうか。特に交際してもいない間柄の場合なら、その真意を探るべく慎重になりはしないだろうか。手放しで喜べる人は、いるのだろうか。

 

「食べる」という行為は、それだけ重要な意味を持つように思う。カニバリズムという文化が存在する以上、どこかで何かの拍子に、自分が食べられるかもしれないという可能性は0パーセントではない。実際に海外のみならず、過去に日本でもさまざまなカニバリズムに関連した事件が起きているのだ。

 

 ここで言いたいのは、「いつか誰かに食べられるかもしれないから、気を付けてね!」ということではもちろんない。私たちは普段当たり前のように、命を喰らっている。牛・豚・鶏・羊・魚・貝・・・、呼吸するように命を喰らっておきながら、自分が喰われることは恐れている。ホルモンと称して、動物の内臓も喰らっておきながら、人間の内臓を見ることすら恐ろしいと思ってしまう。

 

 今回紹介する「君の膵臓をたべたい」。実写映画化も決まったこの作品の内容にはあえて触れないでおこうと思う。帯にも書いてあるように、タイトルの意味は物語の読後に、しっぽりと心に落ちていくものなのだ。純情で、美しい物語なので、タイトルに抵抗を感じるという人にもぜひ読んでほしい。

 

 作中にはホルモンを食べるシーンが出てくる。実際にホルモンを食べる人ならばわかるだろうが、ぐちゅぐちゅとしたもの、コリコリとしたもの、さまざまな触感を持つあれは、いわば内臓のぶつ切りだ。そして大抵、ホルモン焼きのお店では触感についての説明を受ける。

 

「コリコリしていておいしいですよ」
「えー食べてみたい!頼もうよ!」
「1つください!」

 

これが、
「膵臓の部分です。生命維持に必要な器官で、主に膵液の分泌や血糖のコントロールを行います。脊椎動物には皆存在していますよ。」

 

といわれたら、1人前食べることができるだろうか。むしろ、オーダーするだろうか。答えは限りなくNOに近いはずだ。

 

 そう考えると、私たちは自分の都合で当たり前のようにものを食べていることが分かる。他人の所有するものを奪って食べることもあるし、残虐な方法で摂取した食材を食べることもある。それを特別悪いことに思わない人も多いし、中にはベジタリアンとして動物性のものを全く摂取しないという人もいる。食べる行為ほど、個性が出るものはないのではないだろうか。

 

 誰かの内臓を食べたい、と思うことは、個性的を通り越して特殊だ。しかし人間である限り、同じ人間のものを食べたい、と思うことには必ず意味がある。特に内臓は、昔は病気の部分と同じところを食べることで完治するともいわれていたそうだ。そこには意味以上に、何らかの深い、熱い感情が隠されているのだ。

 
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 ちなみにこの本は、精力を付けるために食べるホルモンの味はしません。むしろ、眠れないときに飲むホットミルクのような、柔らかで温かみある1冊です。ごちそうさまでした。

 
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参考文献
「君の膵臓をたべたい」
住野よる 著
双葉社
2015年6月21日発行

 

 

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