2016.08.01

やすこな本棚 第六回

 
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 目と目で通じ合うことは日常の中でも多々ある。「人の目を見て話しなさい」とも、学校で習った気がするし、そもそも誰かと話したいときは、その人の目をまず見つめることが大事だと思う。それ以上のことはできなくてもだ。

 

 誰かの目に映る自分はどんな顔をしているのか、その顔を相手はどんな風に感じているのか。それは未来永劫わからないことなのかもしれないが、意中の相手ならばそうであるほど気になることでもある。特に、話したこともなく、お互いのことを良く知らない関係ならばなおさらだ。

 

 また、大抵視線の先の相手は、自分の見て感じた通りの人間とは限らない。そして自らの目で見たことが間違っているとき、人は困惑し悲しみにふけるのだ。本作で描かれているお玉が末造を高利貸しと知らず妾として嫁ぎ、その事実を知った時のように。

 

 父と二人きりの生活から、未造の妾となったお玉は、当初は末造を気品あふれる男性だと思っていた。しかし、末造の職業が高利貸しだと知ったことで、彼を見る目は一変してしまう。この時悲しみと空虚感にふけっていたお玉の希望となったのが、通りすがりの学生・岡田だったのだ。

 

 お玉と岡田は恋仲というわけではない。ましてや、まともに話したことすらなかったのである。しかしお玉は、目に映る岡田の姿に懐かしさすら覚え、徐々に恋慕を抱くようになっていくのである。

 

 ここで確認しておきたいのが、お玉が「一目惚れ」をしたかどうかということだ。この恋は、一目見ただけで恋に落ちてしまったという純粋な思いから来たものではないと思う。ただ単に、自分の目に移った男性を、心の拠り所としていただけなのではないだろうか。そうそれは、今の私たちが抱く芸能人に対する気持ちに似ている気もする。

 

 しかし実際に岡田と話し、間近でその姿を確認したお玉は、その気持ちを深めていく。もはやお玉にとって、岡田は「手の届かない芸能人」ではなくなってしまったのだ。目に映る岡田が、手に届くようになってしまったのである。

 
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 家の外を通る大学生・岡田を見ることから始まったお玉の恋。もしかしたら、末造が高利貸しと知った瞬間に気持ちが覚めていったように、岡田のことも知り進めていくうちに何らかの拍子で幻滅してしまうことも考えられる。しかしそんなことも考えずに、ただただ目に映るその姿にときめきを感じ、会釈されれば胸が躍るかのような気持ちを味わっているお玉は、だれよりも視覚からの情報に従順だったのかもしれない。

 

「人は見た目が8割」とよく耳にするが、その目に映っている自分が現実とどれだけ差があるのか、考えるだけで恐ろしいことだ。それでも目と目を合わせて話すのは、やはり自分のことを知ってほしいからなのではないだろうか。そして自分の目にもまた、誰かが脚色されて映っているのだ。

 

 甘酸っぱさと苦さが混ざった複雑な味なのに、妙にすっきりとした一冊でした。ごちそうさまでした。

 
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参考文献
「雁」
森鴎外 著
新潮文庫
昭和23年12月5日発行

 

 

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