2016.04.01

蒲団

やすこな本棚 第二回

 
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 匂いほど好みが分かれるものも少ないのかもしれない。そうでなくても、人は匂いを気にするものであるし、普段何気なく使っている洗剤や柔軟剤、石けん、シャンプーなど、日常生活で私たちの周りには匂いがあふれている。

 

 私事だが、幼いころは特に匂いを気にしてしまい、食事の際などはいつも匂いを嗅いでしまう癖もあり、その度に親から注意を受けていたこともある。今でも、すぐに匂いを気にしてしまうことはあるが、いろいろな匂いを嗅いでも、一番落ち着くのは実は毎日寝る前に嗅ぐ蒲団の匂いだったりする。私のそれは、幼い日に嗅いだ母の匂いであったり、おひさまの匂いを連想して安心するのであるが、今回紹介する「蒲団」では、そうではない。蒲団に残った、愛した女の残り香だけが主人公竹中時雄の心に寄り添っていたのだ。

 

“一巻の書籍に顔を近く寄せると、言うに言われぬ香水のかおり、肉のかおり、女のかおり――書中の主人公が昔の恋人に「ファースト」を読んで聞かせる段を講釈する時には男の声も列しく戦(ふる)えた。”

 

 竹中時雄は妻子持ちでありながら恋をしていた。自分よりも明らかに若く、自分を慕って頼りにしてきた、ハイカラな芳子に。もしかしたら、芳子も竹中に恋情を抱いていたときもあったかもしれないが、二人は決して恋中であったわけではなく、芳子は他の男に恋をして、純情も捧げてしまったのだ。竹中はその腕の中に芳子を抱くことは一度もなかった。けれども、竹中は近くで嗅いだ芳子の香りに、確かに欲情していたのだ。

 

 男も女も、互いに好みの香りは違うのだろう。もしかしたら、こんなに芳子の香りに惹かれている竹中も、夫婦生活に不満がなく、順調にいっていればこうはならなかったのかもしれない。しかし彼は、芳子に執着し、挙句の果てには激高し芳子と男の仲を間接的ながら裂くという行動に出てしまった。

 

 恋人との中を親にも竹中にも認めてもらえず、純情を捧げてしまったことも打ち明けてしまった芳子は、東京を離れ実家へと帰ることとなる。そうして芳子が来る前の3年前と同様、さびしい生活を送る竹中に芳子から、それまでの人なつこい文とは打って変わった形式ばった手紙が送られてきたのだった。

 

“性欲と悲哀と絶望とが忽(たちま)ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。”

 

 芳子が出ていってそのままになっていた部屋。そこにあった、芳子の使っていた油の染みたリボン、蒲団、夜着、それぞれ匂いを嗅いで、竹中は心がときめくのを感じたようだ。郷愁めいた恋情と、後悔、絶望・・・様々な感情が、きっと竹中を襲っていたのだろう。

 
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 そもそも油と汗の匂いは、そんなに良い匂いではない。特に時間がたっているものは臭気を含んでいるものもある。しかし、それらが確かに時雄に最期のときめきを与え、3年にわたる恋情にピリオドを打つことになったのだろう。彼の恋は、触れることも許されず、告げることも許されないものだったのだ。その中で唯一許されたのが匂いを嗅ぐことだったのかもしれない。

 

 匂いは特に五感の中でも、思い出やそのときの感情を思い起こさせるものなのかもしれない。現に年齢を重ねても匂いは覚えているし、思い出の中の匂いも色あせないままだ。思い出の中にそういった匂いがあるからこそ、私たちはより鮮明にことを覚えていられるのかもしれない。

 

 どこか生身の人間らしい、恋の匂いを嗅いだ一冊でした、ごちそうさまでした。

 
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参考文献
「蒲団・重右衛門の最後」
田山花袋 著
新潮文庫
昭和27年3月15日発行

 

 

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