2014.04.18

パーカーの赤い万年筆と1989年の八ヶ岳のキース・ジャレット〜色彩の新しい価値を創造させたもの〜

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万年筆[第3回]

 昔、ちょっとした事情があって、赤坂の外れの薄汚い雑居ビルの5階にある会社の手伝いをしていた。そこで短期間だったが、ずいぶんとカラー・マーケティングについて勉強したことがあった。1989年の話だ。

 それはキース・ジャレットが厳寒の八ヶ岳高原音楽堂で、バッハのゴルトベルグ変奏曲を演奏した年でもある。この作品はグレン・グールドによるものがあまりに有名だけれど、僕はこのジャレットのハープシコードによる神々しさを保ちつつも、ちょっと情緒に流れがちな演奏が好きだ。

 バッハが構築した音色には、無色透明ともいえる表現法で演奏されることが多いが、このジャレットの演奏はまるで色彩の新しい価値を創造するように、例外的に彩りに満ち溢れている。ジャレットはこの演奏を八ヶ岳で行ったことについて、「神の音楽は都市で見るのは難しい」と述べているがその言葉通り、この色彩は厳寒のモノクロームの高原の音楽堂だからこそ表出してきたものだ。

 赤坂の雑居ビルでひもといた専門書には、カラー・マーケティングの手法を取り入れた史上初の製品は万年筆だと書かれていた。1920年代、今からほぼ100年前のことだ。当時、万年筆のボディカラーは黒ばかり、デザインも似たり寄ったりで、お世辞にも魅力的とはいいがたいものだった。そんな中パーカーが赤い万年筆を試作し、シカゴ、シアトル、そしてニューヨークでテスト販売を行ったのだ。

 今でこそ万年筆のボデイは、グレー、ブルー、赤やピンク、シルバーにゴールドと文字通りにカラフルで、黒い万年筆というと昔の作家が使っていたものというイメージぐらいしか思い浮かばない。しかし、当時は赤い万年筆なんて、誰も想像しない代物で多くの消費者の目を丸くさせたのだが、この斬新なカラー・マーケティングは、結果的に消費者の心を捉え大成功を収めた。

 それでも1930年代にはまだ黒い万年筆が8割を占めていて、カラフルな万年筆が8割までシェアを伸ばしたのは、1960年代に入ってからのこと。もっともこの時代は世の中そのものもカラフルであったわけだが。

 キース・ジャレットの名演(世の中では必ずしもそう呼ばれてはいないが)から遡ること半世紀とちょっと。晩年のジョージ・サッフォード・パーカーもまた、色彩の新しい価値を探し創造していた。

(文・久保田雄城/写真・塩見徹)