2014.04.11

母なる大学の僕の友だち、DELFONICS、あるいは人が贈り物に万年筆を選ぶ理由について

01_Fountainpen_2_3

万年筆[第2回]

 万年筆僕の古い女友だち(僕は彼女が中学生の頃から知っている)が数年前にボローニャ大学に入学した。彼女は生粋の日本人だが、オペラとイタリアをこよなく愛していて、日本の大学の卒業と同時にヨーロッパ最古のその大学に再入学を果たしたわけだ。

 9月の入学式に向けて、彼女は8月の中頃に日本を離れた。僕らはその前夜、青山のビストロで会食を楽しんだ。その待ち合わせの時間までに小一時間ほどあったので、何か彼女の負担にならないような入学祝いはないものかと、表参道ヒルズの「DELFONICS」に足を伸ばした。そこで見つけたのがラミーのサファリの限定カラーのターコイズブルー。僕は迷わずそれを購入した。

 ラミーは前回取り上げたペリカンに比べると歴史も浅いのだがその分、同時代的なテイストがぷんぷん匂ってくるようなブランドだ。ラミーのフラッグシップモデルといってもよい「LAMY2000」は1966年に「西暦2000年になっても通用するデザイン」をコンセプトに製作されたものだが、2014年の今も、当時のデザインで販売されている。

 かつて、中学や高校の入学祝いなどは万年筆を贈り物に選ぶのがわりと一般的だったと思う。今はどうなのだろうか。以前ほどの勢いはないような気がする。ただ、僕にとっては万年筆を贈るという行為の中には昔も今も特別な想いが込められている。それは、その人の成長を心から願う気持ちだ。だから、本当に自分にとって大切な人にしか贈らない。お隣の家の坊やのおつきあい要素の強い贈り物には選びはしないのだ。



 人には学ぶというインプットがあり、表現するというアウトプットがある。学びは書物から得られることが多いだろう。そして表現は、それこそ千差万別だろう。ある女は絵を描き、ある男は音楽を奏でる。しかしその誰もが必ず表現のひとつとして文章を書く。そして文字を書く道具のひとつとして万年筆がある。だから、僕は彼や彼女たちの成長を願い、万年筆を贈り続けるのだ。

(文・久保田雄城/写真・塩見徹)



────────────

次回、万年筆[第3回]「パーカーの赤い万年筆と1989年の八ヶ岳のキース・ジャレット〜色彩の新しい価値を創造させたもの〜」は4月18日配信予定です。