2015.02.27

予め知らされる物語の終焉(後編)

コンパス[第4回]
 
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彼は商社勤務でアフリカが担当エリアだ。8年前に再婚した。出会って半年、相手は一回り年下のそこそこ名の知れた料理研究家だった。周りには「ちょっと年の差はあるけれど、とっても素敵なカップル」として映った。彼ももちろん、そのように感じていた。新婚旅行はサハラ砂漠に出かけた。なんだか「シェルタリング・スカイ」みたいだけれど、もちろん違う。彼らは最高にその旅行を楽しんだ。
そして、赤坂六丁目にヴィンテージマンションを借りて誰もが羨む暮らしを始めた。

 

けれど幸せな日々は長く続かなかった。妻は妊娠中から、言葉の暴力、いわゆるモラル・ハラスメントを行うようになっていった。彼は、まあ妊娠中で情緒が不安定なだけだろうと楽観的に考えていた。けれど、それは悪夢の入り口でしかなかった。出産後も彼女の執拗な言葉の暴力は続いた。でも、言葉の暴力は密室で彼と二人だけの時に限られていたから、誰もそれがわからなかったし、彼も誰にも相談をしなかった。すべて彼が受け止めた。いや極限まで受け止めようとしたが、それは叶わなかった。

 

彼は家を出て、恵比寿の小さなアパートメントハウスで一人住まいを始めた。

 

別居中の赤坂の家に彼は月に1回泊まりにいった。妻はその時はいつも友人の家に泊まりに行っていたので、彼は24時間の束の間、3歳の息子との生活を営むことができた。
しかし1年後、妻は博多にある実家を、料理スタジオを含む二世帯住宅に改築し九州に戻ることになった。

 

経済的な面からもそれが妥当だと、冷静に彼も同意した。なにしろ赤坂のマンションの賃料はかなり高額だったから。ただし、彼は当然、妻の実家との折り合いが悪いから、もう自宅で過ごすように息子に会えなくなることもわかっていた。

 

これからは、ホテルをとって、息子と過ごすことになるだろう。でもそれは決して「暮らし」ではない。あくまでホテルという名の非日常空間でのひとときでしかない。

 

3月の半ば、彼は息子との最後の週末を過ごす。彼を幼稚園に迎えに行き、隣の公園で日が暮れるまで遊んだ。夕飯は、息子のお気に入りのファミリーレストランへ。それから息子が前から欲しかった仮面ライダーの本を六本木の青山ブックセンターで買った。
東京は夜の7時、春の宵。マンションに戻り、彼は息子と風呂に入る。

 

息子の髪を洗い、カラダを洗っている時に、
彼は不意に涙が止まらなくなった。
それはやがて嗚咽を経て号泣となった。

 

しかし息子は、驚きはしなかった。
「パパ、感動したんだね」と言う。
彼は息子に「うん、お前に感動したんだ」と泣き笑いしながら答える。
そうすると息子は嬉しそうに、ただ微笑んだ、何も言わずに。

 

私たちは決して羅針盤を持って旅をしているわけではないし、
生命の環を描くのにコンパスを必要とするわけでもないのだ。
だが、時として人生はとても辛くなる。

 

けれど、それはやがて美しい思い出になっていくものだ。
なぜならば人生はそれ自体が、すでに美しいからだ。

 

(文・久保田雄城/写真・塩見徹)
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