- 2016.01.13
まるごとちひろ美術館―世界で最初の絵本美術館―
小さな命の光を描き続けた絵本画家
2016年1月2日(土) 佐藤愛美
なぜこんなところに美術館が?と思わせる下石神井の住宅街。
今は亡き絵本画家・いわさきちひろの自宅兼アトリエ跡地に建設されたのが、ちひろ美術館・東京である。「ちひろが亡くなった後も、彼女の絵を見ることができる場所が欲しい!」というファンの声に応える形で1977年に完成した。ここは、彼女が33歳から亡くなる55歳までの22年間、愛する夫と息子と共に過ごした思い出の場所だ。
入口にはシンボルツリーのケヤキが3本、訪れるすべての人々を暖かく迎え入れてくれるかのように佇んでいる。
日本人であれば、いわさきちひろを知らない人はいないだろう。たとえ名前を知らなかったとしても、独特の柔らかいタッチの水彩画はどこかで見覚えがあるのではないだろうか。私もまた、幼い頃から彼女の絵は身近にあった。そういった意味でも、ちひろ美術館は以前から訪れてみたいと思っていた場所の1つだ。
彼女は生涯を通して「子ども」をテーマに描き続けた画家である。
眠っている小さな赤ちゃんや、友達と遊ぶ幼年期の子どもたち、童話の中の可憐な少女。現在も本屋さんや図書館に行けば、彼女が挿絵を手掛けた数多くの絵本に出会うことができる。ひとたび絵本を開けば、柔らかく微笑みかけてくれる可愛い子どもの姿が目に留まり、見る者を優しい気持ちにさせてくれる。淡い色で描かれた愛くるしい子どもたちは、作者が亡くなって40年以上が経過した今もなお、年齢や性別を問わずたくさんの人々に愛されているのだ。
ちひろ美術館では、年に4回テーマを変えて作品展示を行っているそうだ。今回のテーマは「まるごとちひろ美術館―世界で最初の絵本美術館―」。
ちひろの作品だけでなく、国内外の著名な絵本作家の作品も紹介されており、非常に見応えのある展示だ。世界の絵本画家の展示作品の中に、エリック・カールが描いた「おんどり」の絵があった。日本でも愛されている絵本「はらぺこあおむし」の作者である。彼がちひろ美術館に作品を寄贈した絵本画家の第一号であるというエピソードには驚いた。
ちひろ美術館は、世界中で愛されている絵本の原画を集めた「最初の絵本美術館」であり、世代を超えて絵本の魅力を伝えていく場所でもあるという。それは、絵本のイラストレーションを美術作品として広めていきたいという、ちひろの想いに重なる。
親はどうしても さわらずにはいられないものじゃないかしら。
わたしはさわって育てた。
小さい子どもがきゅっとさわるでしょ、
あの握力の強さはとても嬉しいですね。
(いわさきちひろ1972年)
あどけなくて、思わず触りたくなるような赤ちゃんの絵。
絵を描くちひろの傍には、いつも最愛の息子がいたそうだ。わが子の姿を描きつつ、また育児書の仕事のために保育園でスケッチを重ねることで、たとえば10か月と1歳など月齢のわずかに違うあかちゃんの姿を、モデルを見ずに描けるようになったという。つぶらな瞳や小さな手、体温が伝わってくるような真っ赤なほっぺなどの描写は、小さな命を慈しむ気持ちが、ちひろの内側から溢れて出していたことを感じさせてくれる。
平和の中に生きる健やかな子どもの姿を描く一方で、ちひろは戦火の中にいる子どもたちの姿も柔らかな水彩で表現した。
『戦火のなかの子どもたち』(岩崎ちひろ 岩崎書店)は、戦争をテーマに、詩のような言葉と絵で構成された絵本である。
母さんといっしょに
もえていった
ちいさなぼうや。
(『戦火のなかの子どもたち』より)
母親の険しい表情と対比するかのように描かれた、幼いぼうやのあどけない表情。
青春時代を戦争に奪われ、激化するベトナム戦争に心を痛めていたちひろは、どんな思いで筆を握ったのだろうか。
戦争で傷ついた子どもを描いた作品は世の中に数多く存在するが、ちひろが描きたかったのは子どもたちの痛みや苦しみだけでは決してない。戦争を知っている画家だからこそ描ける、悲惨な時代を生きる子どもたちの本当の姿がそこにはあった。
戦火の中でも変わることがない子どもたちの持つ柔らかさや、生命の輝き。絵の中の少年の目には光が宿っており、戦時下でも生き続ける力を感じさせると同時に、子どもたちの未来を簡単に奪う戦争の惨さを突き付けられた。
ちひろの生前では最後の絵本となった『戦火のなかの子どもたち』。彼女は現代を生きる私たちが深く心に刻むべき大切なメッセージを入れ込んだのだろう。
作品を鑑賞すると同時に、ちひろ美術館の建築にも注目したい。2002年に美術館がリニューアルオープンした際、設計を手掛けたのは建築家の内藤寛氏である。
「時間を繋ぐ」というコンセプトのもと、世代と世代の繋がりや、作り手と受け取り手の繋がりを重視した形で美術館は生まれ変わった。年配の方も安心して展示を見ることができるように、館内はバリアフリーの設計になっている。また、小さい子が絵本やおもちゃを楽しむことができる「こどものへや」が用意されていたり、各作品は大人と子どもが一緒に見やすい高さに展示されていたりと、館内のいたるところに子ども連れの来館者に対する配慮が見られる。ちひろ美術館のこういった細やかな優しさは「美術館は作品を見に来るところ」という従来の美術館に対する硬質なイメージを払拭してくれるかのようだ。
美術館の1階にはちひろのアトリエが復元されている。真剣な表情で作品を描いている彼女の息遣いが聞こえてきそうな、とてもリアルな部屋だ。
また、2階には図書室がある。ちひろの絵本や書籍の他、ちひろ美術館が選んだ3000冊の絵本や展示にまつわる資料などが配下されていた。
まさに、世代を超え、時間を繋ぐ場所だ。
取材に行った当日は、ちひろの水彩技法を実際に体験することができるワークショップが開催されていた。
私も筆を片手に挑戦してみたが、にじみ絵の技法は想像していたよりもずっと奥が深い。
少しの水加減、絵の具の垂らし方によって絵の雰囲気が変わってしまうのだ。この技法を自在に扱えるようになるには、長年の経験が必要なのだろうと実感した。
ちひろのように自由自在に色を扱うことは難しかったけれど、完成したポチ袋は私だけのオリジナルの滲みが広がっていて気に入った。
迷路のように繋がった展示室をひととおり見て周ると、まるでいわさきちひろの家に遊びに来たかのような不思議な気持ちになった。
実はちひろ美術館は東京だけでなく、長野県の安曇野にも姉妹館が存在する。北アルプスの山々に囲まれた信州は、ちひろの両親の出身地。ちひろが幼い頃から慣れ親しんだ心のふるさとでもある。東京の住宅街に溶け込む温かな美術館とはまた違い、長野の広大な自然の中に根付き、多くの絵本画家の作品を紹介している。
こちらは東京から「ぶらり」と行くことができない場所であることが惜しまれる。いつか長野行きの電車に乗って、ちひろの心のふるさとに降り立ってみたいと思いながら、ちひろ美術館を後にした。
(敬称略)
○『まるごとちひろ美術館―世界で最初の絵本美術館―』○
期間:2015年10月28日(水)〜2016年1月31日(日)
開館時間:10:00〜17:00(最終入館16:30)
休館日:月曜日(祝休日は開館、翌平日休館)
料金: 高校生以下無料、大人800円
会場:ちひろ美術館・東京 <西武新宿線上井草駅下車徒歩7分>
〒177-0042 東京都練馬区下石神井4-7-2
TEL:03-3995-0612 / テレフォンガイド:03-3995-3001
http://www.chihiro.jp/tokyo/
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