2016.01.06

そこにある、時間―ドイツ銀行コレクションの現代写真

今日、あらゆるものは写真になるために存在する。

 

2015年12月26日(土) 石川 聡子

 

 土曜日の昼どき、品川駅は混んでいた。改札の係員窓口にも行列ができている。年末の喧噪もさることながら、複数の路線が交差するターミナル駅ゆえの光景でもあろう。駅前の横断歩道ですれ違う人々は年齢や恰好もさまざまで、外国人も少なくない。クリスマスの甘い余韻を引きずっているのか、それともすべてが真新しくなる正月への高揚感からか、心なしか皆、明るい表情に感じた。単に、冬の冷気を誤魔化すような晴れやかな陽ざしのせいかもしれない。

 

 原美術館は品川駅から離れたところにある。少し歩いただけで人影はぐっと少なくなり、ついさっきの喧噪とのギャップに戸惑う。徒歩15分。これから目にする展覧会への期待感を高めるのに効果的な時間だ。目的は「そこにある、時間―ドイツ銀行コレクションの現代写真」展。ドイツ銀行の場所も規模もよく知らないが、「世界最高峰といわれる現代美術コレクション」との謳い文句をみてとりあえず凄いものが日本に来たんだなという勝手な確信だけで電車に乗ってきた。マリオットホテルの看板、セルビア大使館を横目に道なりに進んでいくと、左手に長く続く塀がみえてきた。原美術館の看板が掲げられている部分が白く塗られていて印象的だ。元私邸だという建物はそれらしく住宅街になじんでいた。その意固地な白さが、すぐさまあまたの写真と対峙する私の頭に余白を作ってくれた。

 
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 はじめに目に飛び込んできたのは、闇夜に浮かび上がる真っ白なスクリーンの写真(1)であった。すぐにはその意図しているところが理解できず、あとでゆっくり見ようと思いいったん次の作品に歩を進めたが、何かひっかかるものがあってすぐさま戻ってもう一度みた。受付でもらった作品解説に目を通す。どうやら、長時間露光によって映画一本分の光をとらえた作品らしい。たった一枚で時間の連続性を指し示している。映像の領分と写真の領分はこれほどまでに紙一重だったのか。それまでわたしの中で強くあった「瞬間を切り取る」写真のイメージを見事にひっくり返してくれた。光の露出と引き換えに失われたイメージが指し示すのは、“見えない”時間だ。なんとも象徴的なこの作品は、「時間は多様で複雑なものである」という本展の主張を鮮やかに言い表している。

 
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 一見、何を表現しているのかわからなかったが、作品解説を読んでうなった作品はほかにもある。木目に残ったあざのような跡をとらえたこちらの作品(2)。丸や四角の痕跡は、ずっと壁にかかっていた家族の写真をはずした名残なのだという。これだけ跡がくっきりと残るくらいなので、きっとそれだけ長いこと暮らしていたと思われるが、どんな家族だったのか、なぜ写真をはずすことになったのか、もう一緒に暮らしていないのか、はずされた写真はどこへ行ったのかなど色々な想像が頭をかけめぐる。無性に切なさが残る写真であった。

 

 廊下、階段、吹き抜け、小部屋。建物の特性を活かしつつ並べられた写真群は、撮影したアーティストはもちろん、その年代も国籍も背景にある文化も、そして写真の手法およびコンセプトもバラバラである。この写真たちを秩序立てている唯一の“衝立”もきわめてシンプルな4つの章立てのみであり、各々の章が「過去」や「未来」といった概念的であるがために、そこまで強固に区切りをつけている感じはしない。しかし逆に、一枚一枚写真の前に立つたびに新鮮さが伴い、同時に、いま私がこうしているあいだも、世界ではさまざまな人がさまざまな時間を過ごしているのだなと、時間に追われている普段の生活では浮かばないような悠長な考えが頭をよぎったりする。気づいたら、本展示の「そこにある、時間」というとてつもなく壮大で挑戦的な主題に組み込まれていたことにハッとする。

 
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「あなたはすぐに写真を撮りたがる あたしは何時も其れを厭がるの だって写真になっちぇば あたしが古くなるじゃない」
と、ある女性歌手は歌っていたが、必ずしも写真=過去とは限らず、何年たっても被写体が色あせない例もあるのではないかと本展示をみて思った。倉庫のような場所で踊る女性(3)、工場のような場所でギターをつま弾く男性を切り取った写真。彼らは(おそらく本望でない)現実のなかで思い思いに夢を実演してみせる。その姿は堂々としていて、なんともいえない魅力を放っている。彼らの過去も現在も未来も本当のところはわからない。それでも写真の「真」のもつ威力をこのように突き付けられたら、その沈黙の言語に反論する余地はすでにない。写真は記録に終わるだけではなく、また記憶にとどまるだけでもなく、ときには未来をも描く立派なアートとしても十分に成り立ちうるのだ。

 

 帰り、ほどよい徒労感を伴って駅に向かっていたら、遠くに京急の電車が走っているのがみえ、人里離れた異界から下山するような感覚に陥った。本記事を書くために立ち寄った喫茶店で、隣の席に座っていた男女4人が記念にと言って写真を撮りはじめた。はいチーズの決まり文句で彼らの一瞬が切り取られる。流行りのSNSにでものせるのだろうか。彼らの写真の背景に映りこんでしまったような気がして少し落ち着かなかった。冒頭にあげたスーザン・ソンタグの文言が頭に浮かぶ。約40年前の彼女の指摘は恐ろしくもあたっているのかもしれない。写真が誕生して200年足らず。たしかに写真は手軽な手段にはなったが、その奥行きに広がる“見えない”可能性は未知数であり、それを発見するに至るまでの格闘の歴史もまだまだ続くように思う。

 
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*スーサン・ソンタグ著『写真論』より引用

 
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そこにある、時間―ドイツ銀行コレクションの現代写真
2015年9月12日[土]~2016年1月11日[月・祝] ※休館:月曜日(1月11日は開館)
原美術館
http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/BpCEYvAgoQywOGlLIeHS