2015.11.25

ニキ・ド・サンファル展

泣いても喚いても“女”である彼女が銃口を向けたもの

 

2015年11月8日(日) 石川 聡子

 

10月末。とある駅のホームに降り立った時、鮮やかなピンク色に染まった巨大な看板が目にとまった。日暮れ近く、空が薄暗くぼんやりした時間だったので、余計に身体が反応したのだろう。国立新美術館の広告だった。ニキ・ド・サンファル─聞き慣れないが、異国独特のリズムをもったその横文字の単語が妙に印象に残った。それが1人の芸術家の名前だということを知るまでにちょっと時間がかかった。

 

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雨、暗い日曜日。私は国立新美術館を訪れた。この建物に足を踏み入れるのは随分久しぶりだ。前に来たときはアメリカン・ポップ・アートのときだっただろうか…。それでも不思議とスッと私のカラダはこの空間になじんだ。ゆるやかな波形を描くガラスのカーテンウォール、天井かなたの壮大な吹き抜け。洗練された機能美は冷たさを通り越して心地よい。黒川紀章が設計したという巨大空間は、こちらが思っている以上に受容の深度が深いのかもしれない。何はともあれ、向かうはニキ・ド・サンファル展だ。看板の矢印通りに足を進めた。

 

さっそく私を出迎えたのは、ピストルをかまえたニキの映像だった。数秒の映像が無音で静かにリピートされていた。きわめて印象強い始まり方である。それはモデルとして活動していた時期もあるというニキの端麗な容姿も大いに手伝っているだろう。彼女のことをよく知らなくても、きっとジャンヌ・ダルクのような女性だったのだろうと想像を膨らませてしまう。筆ではなく銃を手にして世に抗った女性芸術家、ニキ。何が彼女を駆り立てたのか。

フランス系アメリカ人の母とフランス貴族の血を引く父との間に生まれたニキ・ド・サンファルは、アメリカで幼少期を過ごした。モデル活動を経て若くして結婚、一女をもうけるも、次第に重度の精神疾患に悩まされていく。そのときに救いを求めた芸術療法が彼女のその後を大きく変えた。次第に芸術家の道を志すようになった彼女は、アメリカ・フランス両方の文化を吸収しながら独自のスタイルを確立していく。そうして1961年、美術史を揺るがす「射撃絵画」が生み出されたのだ。

 

「マリブの射撃」と題された映像に、その射撃絵画の様子が収められている。半身、天使、花瓶に髑髏…さまざまな石膏のオブジェが張り付けられた純白のレリーフ。そこに銃口を向けたニキが、潔く発砲していく。音を立てて破壊された石膏からは、戦場で被弾した戦士が血を流すように、色彩豊かな絵の具が勢いよく溢れだす。4発、5発…淡々と撃っていくニキの顔は微笑を浮かべてさえもいて、純粋に攻撃的な制作行為を楽しんでいるようにもみえる。彼女が引き金を引き、標的となった石膏から絵の具が飛び散るたびに歓声をあげる観客もまた、楽しげな様子で映っている。その場景はまるで古代ローマ、コロッセオで血生臭い見世物に興奮を隠しきれない民衆の姿を私に想起させた。異常なのは残虐的行為か、それともその残虐的行為への賛美か。銃声が消えかけるとき、鮮やかな涙でレリーフが汚されていく。ときとして美は非情に宿る。そんなことを私は考えていた。

 

射撃絵画で既成概念を打ち破る手法をものにしたニキの主題は、徐々に揺るぐことなき自身の「女であること」への問いへと変わっていく。ときには聖母であり、ときには娼婦であり…。決して一面ではとらえられない女性本来の姿を、複数のオブジェで成るアッサンブラージュ*で表現した(「赤い魔女」)。血色に染まり、身体的欠如を携えてカンバスに浮かび上がる肉体は、醜悪という形容がはからずも適切だ。しかし、この醜悪な女性像にこそ私は強く惹きつけられたのである。それはこの表現がきわめて誠実だからであろう。着飾ってもいない、貞淑のかけらもない、社会(男と言い換えてもいい)が望まない女の姿。ストレートな表現は、ニキが銃を構えたときのまっすぐな姿勢をすぐさま思い起こさせる。ここには嘘がない。そんなものはとっくに被弾して乾いた地に転がっているだけだ。

 

アンファンテリブルとして世に衝撃を与え、美術界で高い評価を得た射撃絵画だったが、ほどなくしてニキはパタリとやめてしまう。銃を放つ制作スタイルにドラッグ中毒のような感覚を覚え、それに危機感を感じたためであった。しばらく生々しい女性像を表現していたニキだったが、一転、友人の妊娠をきっかけに、色彩と躍動感にあふれた「ナナ(=娘の意)」シリーズを発表。芸術家として揺るがない地位を築いていくことになる。

 

今回のニキ・ド・サンファル展を宣伝するあらゆるメディアが前面にとりあげている「ナナ」シリーズ。本稿ではあえて触れないでおく。正直、私はこの「ナナ」シリーズがあまり好みではない。過剰なカラフルさと伸びやかな形態がどこか嘘くさく、表面的に感じてしまうのである。しかし、なぜ「ナナ」がこれほどまでに豊満である必要があるのかを考えてみたところ、ある結論にたどり着いた。この色彩とボリュームで誤魔化した肉体の下には、それこそ複雑でおどろおどろしい女の「真実」が詰まっている。それはかつてニキが銃で撃ち殺し、決して表に出てこないように作品に封じ込めたものであったはずだ。ニキが銃口を向けていたのは女を抑えつける社会だけではない。ニキの中にも存在していたであろう女の弱さもその標的だったのだ。彼女が射撃をやめた途端、それを覆い隠す甲冑が必要になった。社会へ解放された女性を表現したとされる「ナナ」だが、私にはその下に隠された決定的な弱さがはっきりと見える。女は着飾り、強がり、生きていく。泣いても喚いても“女”なのだ。

 

願わくば、この辺で新たな狙撃手の登壇を求めたい。いつともわからぬ“彼女”の出現。それまで私もとことん女であることに悩み続けていこうと思う。そうするしかないのである。私が“女”であるかぎり。

 

*アッサンブラージュ:寄せ集め、組み合わせという意味のフランス語。素材を積み上げる、貼り付けるなどの方法により制作された美術作品およびその技法を指す。

 

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ニキ・ド・サンファル展
2015年9月18日(金)〜12月14日(月) ※毎週火曜日休館
国立新美術館 企画展示室1E
http://www.niki2015.jp/


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