- 2014.10.31
思い出の中でしかもう会えない懐かしい喜びに、ただ身をまかせるということ(後編)
ボールペン[第4回]
そんな訳で、彼女が組織の中で、しかも広報といういろんな人種と上手につき合うことが求められる職についていることが驚きだった。しかも、インタビューによると彼女はもうこの仕事を4年やっているという。僕と離れてすぐに帰国し、ファッションモデルを辞めて(あるいは併行して)、始めたということだ。
テロップの名前には見覚えはなかったけれど、考えてみれば僕は彼女の本名を知らなかった。いつも芸名で呼んでいたからだ。もちろんそれで何の問題もなかったわけだけど。こうして彼女の本名(と思われる)を見ると、随分古風な名前だったことがわかる。だから、一度本名を尋ねた時に、「そんなこと、どうでもいいでしょ」と彼女は答えたのかもしれない。
彼女は元々、洗練されたファッションだったけれど(ファションモデルでも私服は目も当てられないという女はごまんといる)、今の彼女は、よりそれがブラッシュアップされていた。でも思わずにやついてしまったことがある。
白いシャツに黒いジャケットとパンツいうシンプル(もちろんそのブランドのものだろうから、その2点だけで、間違いなく30万は超えるプライスだろう)だけど、この上なくゴージャスな出で立ちだ。しかし、左手に持っていたペンが、僕と過ごしていた頃に彼女のお気に入りだった、ステッドラーのトリプラス・ボールの緑だったのだ。なんでも彼女は僕の「青」に対抗したのだと、よく笑いながら、そう言ったものだ。彼女のファッションのバランスからいえば間違いなく万年筆を持つべきだし、もちろん彼女もそれを知っているはずだ。でもチープなボールペン、しかも緑。
時が流れ、街は姿を変えて、僕は住む国もパートナーも変えたけれど、
彼女は何も変わっていないことを、僕はそのトリプラス・ボール見て知った。
彼女は相変わらず突き抜けるように静かに激しくロックだ。
そして、なんだか僕はとても嬉しくなった。
その夜、結局、原稿は一文字も書かなかった。
僕は、思い出の中でしかもう会えない懐かしい喜びに、ただ身をまかせていた。
酒さえ飲まずに。
(文・久保田雄城/写真・塩見徹)
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シリーズ「ボールペン」了 来月のテーマは「封筒」です。
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